なにかを「あきらめる」ことは 断念する のようにとらえがちですが、逆に踏ん切りがついて精神的に楽になるということでもあります。
「あきらめる」という言葉は、元々は断念:ドロップアウトの意味ではなく、仏教用語では「真理を悟る」という意味があるようで、「諦」の字は「真理を観察して明らかに見る」という意味も持ち合わせているようです。
日本語っていろんな解釈ができるものですね。
さまざまな欲望を追いかけて頑張る期間も人間には必要でしょう。
少しオーバーなくらいで頑張るくらいのことは若いうちはできるでしょう。
(一度や二度は経験した方が良い。)
しかしながら、年齢とともにその欲望に従うことはだんだんと難しくなってきます。
自身の体力の衰え、能力の限界、家庭のトラブル.....。様々です。
限界を悟るということは生きていく上ではとても重要なこと。
そう、物事にはいろんな意味で限界がある。
己の能力を過信せず限界線を把握して行動すれば、欲望に目がくらんでしまうということもない。限界の一歩手前で自制ができる。でも、他人に、自分の限界線を把握されることはとても嫌なものである。
限界線付近に自己を絶えずもっていくと、とても疲れるというか張り詰めた感じになります。トレーニングという意味では有りです。でも、余裕を持って自己管理したいですよね。私は他人に自分の処理負荷能力を把握されたくはないんです。
例えばですが、仕事で上司から
「 お前は本気を出してない。まだまだやれるだろ。 」
と言われるのもシャクなわけで。
わざと60%くらいでならしてるのに、その余裕しろをなぜ、お前のために使わなければいけない?詰め込まれなければいけない?ということです。スキあらば残りの40%を有効活用しようとする。搾取しようと狙ってるのであります。残りの40%はもし何かあった時のリスク管理のために残しているのです。
ある意味使えるものを使うというのは理にかなったものであるが、100%稼働というのは工場の生産設備の稼働とかもそうなんですが、故障した時のリスクが高いのです。
故障時は一気に生産能力が下がるし、劣化も激しい。
人間も同じです。
いかに他人(特に上司)にバレないように50%のアウトプットを100%に見せて振る舞うのか。を考えた方が身のためなのでしょうか?(そう、うまくやってる人も世の中たくさんいることでしょう。)
ただ、なんか人間性がダメになってしまいそうでそれも嫌な感じです。
そういう風潮が良くないと思うんです。
いやね、1時間でできるものを2時間かけて、ダラダラするということではないんですが、私が言いたいのはですね。。。常にそんな高い負荷の状態で社員を稼働させることに疑問を覚えるのです。残業100時間。それはダメです。(中には200時間って人もいるかもしれませんね。)
じゃー残業45時間を毎月継続。これもだめだと思うんです。
45時間を100%くらいと置いて、30時間くらいになるように調整するというのがとてもちょうどいいと私は思うんです。そうちょうどいい。
45時間以内だったらいいんだよな。ではないんです。忙しい人を基準にして自分勝手な指標を作られても困っちゃいますわ。
無理はせずあきらめましょう!!!
最後に。
できれば認めたくないことが多く、なかなか「真理を悟る」というのは容易ではありません。しかし、「あきらめる」という決断は、一つでも「あきらめて」欲望を捨てると、精神的に浮揚力がついて苦しい人生を見直せるということもあるのです。
ものごとの真意が見えやすくなることで、本当に必要なものは何か、今やるべきことはなんなのか?という視点もやしなえると思うんです。
人は欲望のカタマリなのか。
食欲、性欲、睡眠欲、承認欲求、達成、優越、解明欲などなど。
いきているかぎり、人間は欲望を満たすために行動を起こします。己だけではなく、他人も自身のために行動を起こしてきます。いい具合に皆さんがあきらめてくれればいいんですが、世の中、弱肉強食か。